岩戸(イワト)しめの始(ハジ)めはナギ(伊邪那岐(イザナギ)命(ノミコト))ナミ(伊邪那美(イザナミ)命(ノミコト))の命(ミコト)の時(トキ)であるぞ、ナミの神(カミ)が火(ヒ)の神(カミ)を生(ウ)んで黄泉国(ヨミクニ)に入(ハイ)られたのが、そもそもであるぞ、十(トウ)の卵(タマゴ)を八(ヤッ)つ生(ウ)んで二(フタ)つ残(ノコ)して行(イ)かれたのであるぞ、十二(ジュウニ)の卵(タマゴ)を十(トウ)生(ウ)んだことにもなるのであるぞ、五(イツ)つの卵(タマゴ)を四(ヨッ)つ生(ウ)んだとも言(イ)へるのであるぞ、総(スベ)て神界(シンカイ)のこと、霊界(レイカイ)のことは、現界(ゲンカイ)から見(ミ)れば妙(ミョウ)なことであるなれど、それでちゃんと道(ミチ)にはまってゐるのであるぞ。一(ヒト)ヒネリしてあるのぢゃ、天(アメ)と地(クニ)との間(アイダ)に大(オオ)きレンズがあると思(オモ)へば段々(ダンダン)に判(ワカ)りてくるぞ。夫神(オカミ)、妻神(ツマカミ)、別(ワカ)れ別(ワカ)れになったから、一方的(イッポウテキ)となったから、岩戸(イワト)がしめられたのである道理(ドウリ)、判(ワカ)るであろうがな。その後(ノチ)、独(ヒト)り神(カミ)となられた夫神(オカミ)が三神(サンシン)をはじめ、色々(イロイロ)なものをお生(ウ)みになったのであるが、それが一方的(イッポウテキ)であることは申(モウ)す迄(マデ)もないことであろう、妻神(ツマカミ)も同様(ドウヨウ)、黄泉(ヨミ)大神(オオカミ)となられて、黄泉国(ヨミクニ)の総(スベ)てを生(ウ)み育(ソダ)て給(タマ)ふたのであるぞ、この夫婦神(メオトカミ)が、時(トキ)めぐり来(キ)て、千引(チビキ)の岩戸(ヒワト)をひらかれて相(アイ)抱(ダ)き給(タモ)う時節(ジセツ)来(キ)たのであるぞ、うれしうれしの時代(ジダイ)となって来(キ)たのであるぞ。同(オナ)じ名(ナ)の神(カミ)が到(イタ)るところに現(アラ)はれて来(ク)るのざぞ、名(ナ)は同(オナ)じでも、はたらきは逆(ギャク)なのであるぞ、この二(フタ)つがそろうて、三(ミッ)つとなるのぞ、三(サン)が道(ミチ)ぞと知(シ)らせてあろうがな。時(トキ)来(キ)たりなばこの千引(チビキ)の岩戸(イワホト)を倶(トモ)にひらかんと申(モウ)してあろうがな。 次(ツギ)の岩戸(イワト)しめは天照大神(アマテラスオオカミ)の時(トキ)ぞ、大神(オオカミ)はまだ岩戸(イワト)の中(ナカ)にましますのぞ、ダマシタ岩戸(イワト)からはダマシタ神(カミ)がお出(デ)ましぞと知(シ)らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神(アマテラスオオカミ)、天照皇大神(アマテラススメオオカミ)、日(ヒ)の大神(オオカミ)、揃(ソロ)ふてお出(デ)まし近(チコ)うなって来(キ)たぞ。 次(ツギ)の岩戸(イワト)しめは素盞鳴(スサナル)命(ノミコト)に総(スベ)ての罪(ツミ)をきせてネの国(クニ)に追(オ)ひやった時(トキ)であるぞ、素盞鳴(スサナル)命(ノミコト)は天下(アメガシタ)を治(シロ)しめす御役(オンヤク)神(カミ)であるぞ。天ヶ下(アメガシタ)は重(ヤモ)きもののつもりて固(カタ)まりたものであるからツミと見(ミ)へるのであって、よろづの天(アメ)の神々(カミガミ)が積(ツ)もる-と言(イ)ふ-ツミ(積(ツミ))をよく理解(リカイ)せずして罪神(ツミカミ)と誤(アヤマ)って了(シマ)ったので、これが正(タダ)しく岩戸(イワト)しめであったぞ、命(ミコト)をアラブル神(カミ)なりと申(モウ)して伝(ツタ)へてゐるなれど、アラブル神(カミ)とは粗暴(ソボウ)な神(カミ)ではないぞ、あばれ廻(マワ)り、こわし廻(マワ)る神(カミ)ではないぞ、アラフル(現生(アラフ)る-神(カミ)であるぞ、天ヶ下(アメガシタ)、大国土(オオクニツチ)を守(マモ)り育(ソダ)て給(タモ)う神(カミ)であるぞ、取違(トリチガ)ひしてゐて申(モウ)しわけあるまいがな。このことよく理解(リカイ)出来(デキ)ねば、今度(コンド)の大峠(ダイトウゲ)は越(コ)せんぞ。絶対(ゼッタイ)の御力(オチカラ)を発揮(ハッキ)し給(タマ)ふ、ナギ、ナミ両神(リョウカミ)が、天ヶ下(アマガシタ)を治(シ)らす御役目(オヤクメ)を命(メイ)じられてお生(ウ)みなされた尊(トウト)き御神(オミ)であるぞ。素盞鳴(スサナル)の命(ミコト)にも二通(フタトオ)りあるぞ、一神(ヒトカミ)で生(ウ)み給(タマ)へる御神(オミ)と、夫婦(メオト)呼吸(コキュウ)を合(アワ)せて生(ウ)み給(タマ)へる御神(オミ)と二通(フタトオ)りあるぞ、間違(マチガ)へてはならんことぞ。 神武天皇(ジンムテンノウ)の岩戸(イワト)しめは、御自(オンミズ)ら人皇(ニンノウ)を名乗(ナノ)り給(タマ)ふより他(ホカ)に道(ミチ)なき迄(マデ)の御働(オハタラ)きをなされたからであるぞ。神(カミ)の世(ヨ)から人(ヒト)の世(ヨ)への移(ウツ)り変(カワ)りの事柄(コトガラ)を、一応(イチオウ)、岩戸(イワト)にかくして神(カミ)ヤマトイハレ彦命(ヒコノミコト)として、人皇(ニンノウ)として立(タ)たれたのであるから、大(オオ)きな岩戸(イワト)しめの一(ヒト)つであるぞ。 仏教(ブッキョウ)の渡来(トライ)までは、わずかながらもマコトの神道(シンドウ)の光(ヒカリ)がさしてゐたのであるなれど、仏教(ブッキョウ)と共(トモ)に仏魔(ブツマ)わたり来(キ)て完全(カンゼン)に岩戸(イワト)がしめられて、クラヤミの世(ヨ)となったのであるぞ、その後(ゴ)はもう乱(ミダ)れほうだい、やりほうだいの世(ヨ)となったのであるぞ、これが五度目(コドメ)の大(オオ)き岩戸(イワト)しめであるぞ。