東(ヒムカシ)は扶桑(フソウ)-二三-なり、日(ヒ)-- 出(イ)づる秋(トキ)は来(キ)にけり。この巻(マキ)扶桑(フソウ)-二三-の巻(マキ)、つづく六(ロク)の巻(マキ)を合(アワ)せて七(ナナ)の巻(マキ)一百四十四帖(ヒトヒャクシジュウヨンチョウ)の黙示(モクジ)を五十(イセ)黙示(モクジ)と申(モウ)せよ。イシもの言(イ)ふぞと申(モウ)してありたが、イセにはモノ言(イ)ふイシがあると昔(ムカシ)から知(シ)らしてあろうがな、五(ゴ)の一四(イシ)がもの言(イ)ふのであるぞ、ひらけば五十(ゴジュウ)となり、五百(ゴヒャク)となり、五千(ゴセン)となる。握(ニギ)れば元(モノ)の五(ゴ)となる、五本(ゴホン)の指(ユビ)のように一(イチ)と四(ヨン)であるぞ、このほうを五千(ゴセン)の山(ヤマ)にまつれと申(モウ)してあろうが、これがイチラ(五千連)ぞ、五十連(イツラ)ぞ、判(ワカ)りたか、五十連(イツラ)世(ヨ)に出(デ)るぞ。天(テン)に神(カミ)の座(ザ)あるように、地(チ)には人民(ジンミン)の座(ザ)があるぞ、天(テン)にも人民(ジンミン)の座(ザ)があるぞ、地(チ)に神(カミ)の座(ザ)があるぞ。七(ナナ)の印(シルシ)と申(モウ)してあるぞ、七(ナナ)とはモノのなることぞ、天(テン)は三(サン)であり、地(チ)は四(ヨン)であると今迄(イママデ)は説(ト)かせてあったなれど愈々(イヨイヨ)時節(ジセツ)到来(トウライ)して、天(テン)の数(カズ)二百十六(フタヒャクジュウロク)、地(チ)の数(カズ)一百四十四(ヒトヒャクシジュウシ)となりなり、伊邪那岐(イザナキ)三(サン)となり、伊邪那美(イザナミ)二(ニ)となりなりて、ミトノマグハイして五(ゴ)となるのであるぞ、五(ゴ)は三百六十(サンビャクロクジュウ)であるぞ、天(テン)の中(ナカ)の元(モト)のあり方(カタ)であるぞ、七(ナナ)の燈台(トウダイ)は十(トウ)の燈台(トウダイ)となり出(イ)づる時(トキ)となったぞ、天(アメ)は数(カズ)ぞと申(モウ)してあろう、地(クニ)はいろは(意露波)であるぞ。判(ワカ)らん者(モノ)が上(カミ)に立(タ)つこととなるぞ、大(オオ)グレン目(メ)の前(マエ)、日本(ニホン)のみのことでないぞ、世界中(セカイジュウ)のことであるぞ、今度(コンド)は三千世界(サンゼンセカイ)が変(カワ)るのであるから今迄(イママデ)のようなタテカヘではないのであるぞ。何(ナニ)も彼(カ)も鏡(カガミ)にうつるのであるぞ。鏡(カガミ)が御神体(ゴシンタイ)であるぞ。何(ナニ)もうつらん御神体(ゴシンタイ)のカガミは何(ド)もならんぞ。